22年前
私は22年前の2月13日に予定日よりも半月以上早くこの世に誕生した。
12日の夜遅くに破水をし病院に運ばれたお母さんは翌日の朝9時頃に帝王切開で私を産みました。
私は産声も上げることなく全身がどす黒い仮死状態で生まれたそうです。
すぐに治療にかかった医師から出た言葉は・・・
「ここで治療はできない。早く大きな病院に運ばないとこの子は死んでしまう。」
私はお母さんに抱かれることも産声を上げることもなく、翌日大きな病院へ移りました。
先天性の心肺疾患児として生まれた私は、生後一ヶ月もたたない間に手術をし、20歳まで生きられない・・・と余命宣告までされたそうです。
小3までに再手術2回を含めた7回の手術をし、たくさんの輸血をもらい、幾度も生と死の淵をさまよいました。
冬を中心に風邪で肺炎になったり検査etcで何度も入退院を繰り返し、友達も看護婦さん!
年子の兄と弟がいる我が家は、おじいちゃんとおばあちゃんが毎日交代制でお見舞いに!
入院中は面会時間以外は独りぼっちの私にとって、面会時間が待ち遠しく夕方になると帰られるのがすごく辛かったのを今でも覚えています。
大声で泣きながら「帰ったらアカン!」ってよく言ってました(^^;
ただ兄弟がいる私は「帰ったらアカン!」とたまに来てくれる親には言ったことはありません。
我慢を覚えて、強がりを覚えて、愛想笑いを覚えた幼児期・・・なんか可愛くないよね。
けどホンマは「そばにいて!帰らんといて!私も連れてって!帰らせて!」って言いたくて、密かによく泣いてました(__;)
小学校に入学するときは教育委員会と何度も話し合い、なんとか入学を認めてもらいました!
病名がそこそこある私は、体育etcの運動はすべて禁止。
重いものを持ったり長距離を歩いたり走ったりできない私は、2年生から介助員が付きました。
いろんな規制を背負いながらもなんとか卒業(^O^v
中学時代は体育も掃除もできず、「体育とかせんで楽やよな!」etcと言われ、少し歩いたりするとチアノーゼが出る顔をみて「キモイ!」と言われ、仲間にも入れてもらえずイジメの対象に・・・
辛くて辛くて、ホンマに自殺を考えたこともありました。
でも、家族を思うと弱っちい私にはできなくて(>_<)
学校も先生も友達もすべてが大嫌いで、一人でよく閉じこもっていました。
こんな体やから仕方ない!って言い聞かせつつ、心のなかで親をせめたり、「この気持ち知らんくせに!」と思いながら過ごした三年間。。。
卒業したときはどんなに晴れ晴れしい気持ちだったか(/ ´▽`)ノ
そして高校に入学した年の一月、私に最大のピンチが!
通学中に左胸(心臓)が痛くなり、道でしゃがみ込む。
その日は朝から調子が変やな・・・って感じて、雲の上を歩いてる感覚でした。
タクシーですぐに病院へ向かい主治医から告げられた言葉は「入院ね!」
素晴らしいくらいの予想内発言でしたよ(^^;
その入院で私は酸素と車椅子をすべてに使う生活を言い渡されました。
歩くこともできなくて、四六時中酸素をつけている生活。
初めて町の道路や階段に不便を感じ、今までで一番しんどい体でした。
高3の冬は血流の悪い私には毎朝、頭痛の嵐。
手足も痛く、「なんで神様は苦しめるんやろ」って思ったし、自分の体にも嫌気がありました。
だけど学校だけは大好きで、「休め!」って言葉を無視して行きました!
頑固やな・・・
楽しかった高校も卒業しマイペースに頑張っていた冬。
あまりの頭痛で主治医に訴えると入院して検査をしてみることになりました。
入院中のある日の朝、かなりの頭痛がやってきて呻いてる私をみた主治医は「手術をしないか?」と言ってきました。
手術は高3のときから言われていたものの、怖くて逃げていました。
その話が持ち上がったとき、初めて主治医から私の病気についての詳しい説明がありました。
病名とかだいたい知ってたけど、その説明は医師でない私にはチンプンカンプン・・・
それなりに理解をした私を見て主治医は「手術をせんかったら後1、2年の命。」と親と私に宣告しました。
私は異常なくらいに落ち着いていたし、涙なんてもんは出なかった。
自分の体やから想像はついてたし、逆にいつ死んでもおかしくない!って思ってたから、ショックよりも「ふ〜ん。やっぱそっか・・・」って気持ちが溢れていた。
小3の術後を鮮明に覚えている私にとって、手術は死ぬことよりもイヤで仕方なかった。
けど、親の顔を見ると「する」しか言えなくて・・・
一時退院のときは過度のストレスで顔が太った。
そして数日後、外科医から電話があり1月中旬に私の8回目の手術が決まりました。
リスクの高い手術って聞いてたから「死ぬんやったらせめて赤メッシュだけしとこ♪」思って、入院前日の雪降る中、小さい頃の憧れやった赤メッシュを入れましたo(^-^)o
手術は成功よりも死が頭にあったから、ギターのレッスンにも行ったし、後悔だけはしたくなかった。
入院後は不安を隠すために「集中治療室は3日で出てくる!」って明るく振る舞った。
家族にも明るく振る舞いたくて精神的にホンマしんどかった。
手術前日には大きなぬいぐるみと手紙を抱えて、高校時代の先生が3人もきてくれはった。
夕食くらいまでいてくれ、いろんな話をしてくれた。
次の日、看護婦さんと家族の目は少し潤んでた。
死ぬことしか頭になかった私は笑うようにしたし、できるだけ喋った。
手術室に入るときは家族の顔をちゃんと眺め、手を振ってみた。
2004年1月29日。
朝9時から始まった手術は夜9時くらいに終わり、10時くらいに集中治療室へ戻ったらしい。
10時半頃あまりの暑さに少し起きた。
人工呼吸器がついていて目は開けれなかったけど、家族と外科医の声がた瞬間、「生きてる・・・」って思った。
死ぬことしか頭になかった私には涙がこぼれたし、生きてることにかなりビックリした。
すぐに呼吸器は抜け、担当の外科医と喋った。
次の日の朝には外科医の許可で水を飲み、昼食のお粥を看護婦と父親の手によっておいしくいただいた(*^-^*)
そりゃぁ〜完食するくらいの食べっぷりで、元気すぎる私は1日で集中治療室を出ていくことに!
驚異的な回復力に家族はもちろん、病棟の看護婦はかなりビックリしていた。
おかげで家族が病室に泊まることに!
首の点滴と心臓にメスを入れるために切った骨が痛くて痛くて、寝返りもできなきゃ座ることもできない!
寝るのも辛くて咳もできなかったし、息もしにくかった。
なのに最近の医療は愛のムチか!と思えるくらいに早く立たせ、歩かせ、かなり早くに回復させるようにする。
おかげで術後半月たつ私の誕生日にはミニギターコンサートを開いてくれ、その半月後には退院をしました(^^;
あんなに嫌がって死を覚悟した手術は、19歳の誕生日に酸素と車椅子ナシの生活を私に与えてくれました。
手術の半月前に亡くなった後輩も守ってくれてたのかな・・・
走ることはできないものの、自分ペースでなら多少の距離を歩くこともできるようになり、行きたい場所にも行けるようになり。
大学に入り、バイトも始め、免許も取った。
暗かった世界が一瞬にして明るくなり、知らない世界をたくさん知ることができました。
出会うことはなかった人と出会い、狭かった視野が広がり、生きていることの素晴らしさを教えてもらいました。
友達と笑いながら同じ高さで喋ること。
行きたい場所に行けること。
自分の足でたくさん歩けること。
したいことを以前より少し多くできること。
22年前、家族には嘘のような今の私は、健常者から見ると当たり前すぎる光景です。
当たり前すぎるからこそ、病気を持って初めてその辛さを感じる。
私は昔よりは元気になりました。
階段も2階くらいなら休憩なしに上がれる。
一泊くらいなら旅行もできる。
席を譲ってもらっていた電車も空いていたり、入り口に近かったら立って乗れる。
でも・・・健常者じゃありません。
手術をして、血の流れが良くなって元気になっただけ。
走ることはできないし、走ろうとしたら回復に膨大な時間がかかる。
混んだ電車内や空気の入れ代わりがない場所は酸欠になりそうになる。
長期の旅行も夜中の外出もできない。
そしてまたいつ発作が起きるか分からない。
昔に戻ることの確率が元気になる確率よりも遙かに高く、今の明るい私もいつかはまた偽の明るさに変わります。
今後の手術は8回もの傷ですでにやりにくいそうです。
薬は飲んでいるものの、悪くなるのをできるだけ先に延ばすだけのもの。
移植は私の場合は心肺同時移植になるため、16歳以上でも日本では受けられません。
だからと言って、長時間の飛行機が禁止の私にはアメリカでの移植に行けないのです。
「単心室」「単心房」「肺動脈閉鎖」「三尖弁閉鎖」といくらかの病名がある私には、日本の医療が発達しない限り治ることはない。
だから私の寿命は健常者のみんなより半分以下です。
起きるのが遅いと「死んでいるのでは!?」と家族は思うらしく、一時期は夜中に様子を見に来る程でした。
私は自分の体が大っ嫌いです。
ホンマは元気に生まれて、自分の足で走りたいし、もっとしたいこともある。
だけど私は一人だけやし、病気じゃなきゃ出会わなかった人とたくさん出会え、いろんな優しさをもらいました。
周りにとったら迷惑な人間かも知れない。
うざったい人間かも知れない。
生きてる価値がないのかも知れない。
私の人生は普通やないかも知れない。
私を好いてくれる人はいないかも知れない。
五体満足で外見から分からない障害やからこそ、理解の乏しさ、偏見の目がたくさんあります。
でも、自分で否定するほど腐った生き方はしてないし、何よりも生きることの辛さとしんどさを知ってる。
我慢することの苦しさも、強がることの苦しさも、自分を飾る難しさも、人の感情を意識するしんどさも。
死がいつも隣り合わせで、夜が怖くて、人が怖くて、健康体には程遠くて。
だけど私は病院にも医師にも生まれたときから恵まれていた。
医師と家族、周りの優しい人の力がたくさんあって、20年と言われた命は2年延びた。
私の22年間は短いようで長かった。
時がたつのは早いのにね(ρ_-)o
次は23回目のバースデーを目指して、この命を守ってくれてる☆になった大切な君に・・・
22年間支えてくれた家族に。
歩くスピードをあわせてくれる友達に。
私をずっと支えてくれる愉快な仲間に。
「ありがとう」
そして
「これからもよろしくね☆」
☆☆☆
日本に住む多くの人々が「移植」に対して関心を抱いてほしい。
私は移植は受けられない。
だけど、小さな子供が、小さな命が。
国内の移植で助かる人が一人でもいるならば、国内でしてあげたい。
誰かの命が誰かの命を救えるのなら・・・
私は救ってあげたい。
移植とは、誰かの命を助けること。
誰かの命の中で誰かの命が生きている。
それは・・・
人間だけの特権で、人間だからできること。
私たちの知らない場所で、誰かが誰かの命を待ってます。
私を含め、たくさんの人が必死に生きたいと、元気になりたいと願ってます。


こんにちは。
ふとしたブログ検索でここにやってきました。
私の息子も単心室症で12年前の2月13日に帝王切開で生まれてきました。
1歳半でフォンタン手術をし、今のところは元気に学校へ行っております。
あなたのブログを拝見して、共通する点が多いことで、コメントさせていただきました。
また寄らせていただきます。
投稿: 辰夫 | 2011年10月 2日 (日) 17時38分
4月に生まれた娘が純型肺動脈閉鎖症です。
根治手術含め、娘が貴方のように成人を迎え、素敵な旦那様に巡り会える日が来ることが長い将来の希望、夢です。
末永く旦那様とお幸せに☆彡
投稿: さゆママ | 2011年11月 5日 (土) 10時07分
☆辰夫さん☆
コメントありがとうございます!そしてお返事が遅くなり申し訳ありません…
息子さんと誕生日が一緒とは、奇遇ですね
私は産まれるまで異常があることが分からず、普通分娩で産まれました。
今だと技術も良くなってるんで分かるのかも知れませんが…
フォンタン手術されてるんですね。
私はフォンタン手術を目指していたんですが、重なる手術の結果することができず、今では薬療法くらいしかないそぉです。
移植の話も緩和されてから出ていますが、私の場合は心肺同時ってこともあるし、ここまで来たなら自分の体で一生を!という気持ちもあり、断りました。
息子さんの人生はまだまだこれからですね。
親の立場からすると大変ではあると思いますが、命があればなんとかなる!んで、辰夫さんも息子さんも。
素敵な幸せな人生を歩んでいって下さいね
そしてこんなブログではありますが、またお越しください
投稿: 舞子 | 2011年11月20日 (日) 08時23分
☆さゆママさん☆
コメントありがとうございます!
純型肺動脈閉鎖だとすれば、チアノーゼがありますかもしそうだとすれば、お母さんにしてみたら毎日がヒヤヒヤものですね。。
私の家族も私も(もちろん主人も)チアノーゼを見ながらの生活です。チアノーゼがあると本人以上に周りは気を使うと思います。
しかし、チアノーゼがあるということは体調管理を自分でするためのバロメーターだと私は思っています。
医療は日々進歩しているんで、娘さんにとって一番の治療方法が見つかるとイイですね
お母さんも大変とは思いますが、あまり気を揉まず過ごしてくださいね
投稿: 舞子 | 2011年11月20日 (日) 10時14分
はじめまして。
この記事を何度も何度も読ませていただきました。涙が溢れました。
先月我が子が2歳11ヶ月で亡くなりました。フォンタン手術の後合併症にかかりました。左心低形成症候群という最重度の心臓病です。まさか我が子を失うなんて思いもしませんでした。あんなにおてんばで元気だったのに。。明後日で1ヶ月経ちます。。悲しさや寂しさ、辛い日々を送ってます。。
そんな時このブログに出会いました。頑張っている方がいる事、成人を迎えている方がいる事。すごくびっくりしたしとても嬉しかったです。沢山辛いことを乗り越えていらっしゃって涙が止まりせんでした。。
ずっとずっと応援してます!!えるママンで成長を書いてました。ぜひ見てくださいね。
投稿: ちか | 2011年12月12日 (月) 10時48分